年 |
月 |
本編 |
史実 |
中平元年(184年) |
2月 |
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甲子のこの年に太平道の教祖張角がキ州鉅鹿郡で蜂起。
黄巾の乱の勃発。
甲子はその他、戊辰・辛酉と共に世の変革が起こりやすいとされるいわゆる"三革"の年で、張角は自ら天公将軍と称し、次弟の張宝を地公将軍とし、
末弟の張梁を人公将軍とし、全国大小36の”方(「大方」で1万人、「小方」で6~7千人の組織)”と呼ばれる、組織の信者達を動員して州郡の官舎を襲撃。
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3月 |
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霊帝の妃・何皇后の異母兄・河南尹の何進が大将軍に。
何進は漢の都・洛陽をグルリと囲む八つの関に都尉を置き、また都の亭にも将兵を駐屯させて首都の防備を固める。
さらに朝廷では北地太守の皇甫嵩、宦官・中常侍の呂強の進言に霊帝が党錮の禁を解除。
黄巾賊討伐の遠征軍が結成され、キ州には北中郎将の盧植と護烏桓中郎将の宗員が、豫州潁川、汝南郡方面には左中郎将の皇甫嵩、及び右中郎将の朱儁が任命されて派遣される。
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5月 |
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豫州潁川郡の戦いで皇甫嵩、朱儁らを撃退してそのまま長社の城に官軍を包囲していた黄巾軍の波才だったが、皇甫嵩の火計の前に敗退。
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6月 |
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盧植はキ州で黄巾軍を相手に快勝を収め、遂に教祖の張角を鉅鹿郡の広宗に追い詰めるものの、宦官の讒言により罷免。董卓がその後を継ぐが彼もまたすぐに更迭されて
官軍の指揮は皇甫嵩に。 |
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10月 |
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皇甫嵩が夜襲で広宗の黄巾軍を襲い張梁を斬首。
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11月 |
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さらにその兄の張宝も鉅鹿郡下曲陽の戦いで捕らえて斬首。
黄巾賊本体の壊滅。
教祖の張角は既に病死していた。
黄巾の乱の一応の終結。
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冬 |
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一方、涼州で、湟中の義従(漢王朝に服属する異民族の一派)だった北宮伯玉・李文侯が、同じく涼州の義従だった宋建・王国らによって将軍として擁立され、護羌校尉の伶徴を殺害して叛乱を起こす。
この動きに元の新安県令の辺章・金城従事の韓遂らが加わって金城太守の陳懿を殺害し、州郡を焼き払う。 |
中平2年(185年) |
春 |
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北宮伯玉・辺章・韓遂らは数万の軍勢で三輔地方の園陵にまでなだれ込む。
左車騎将軍の皇甫嵩・中郎将の董卓が討伐に向かうも破れ、皇甫嵩は罷免される。 |
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2月 |
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黄巾の大乱平定間もないこの時期に、漢王朝では新たな宮殿・金人の造営を名目として田畑一畝に付き十銭の増税を行う。
黒山の賊の張燕が投降し、平難中郎将に任じられる。
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8月 |
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朝廷では司空の張温が車騎将軍・仮節に任じられ、執金吾の袁滂を副将に、破虜将軍の董卓、盪寇将軍の周慎らと共に、諸郡から歩騎十万人余りの軍勢を集めて司隷扶風郡の美陽に駐屯させ、歴代皇帝の墓のある園陵の防備に就かせた。
辺章・韓遂の叛乱軍も美陽まで軍を進め、張温らの官軍を撃破。 |
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11月 |
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しかしある夜、光の尾が十丈余りもなる火の様な流星を不吉だとして、辺章・韓遂ら叛乱軍は俄かに金城への撤退を開始。
だがそこに董卓・鮑鴻らの追撃を受けて賊軍は敗走。 |
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・・・ |
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官軍の張温は周慎に三万人の軍勢で逃げる賊軍を追って追撃させ、賊を涼州金城郡の楡中城に包囲するも、逆に賊軍の方から補強路を断たれて孤立し、壊滅。 |
中平3年(186年) |
春 |
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張温らは軍勢を長安へと戻し、司空から大尉に任命される。 |
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冬 |
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張温率いる官軍討伐軍は長安からさらに都へと戻されるが、しかし涼州叛乱軍の方でも北宮伯玉・辺章・李文侯らが韓遂に殺害される。 |
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12月 |
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鮮卑賊が幽州・ヘイ州に乱攻。 |
中平4年(187年) |
4月 |
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涼州刺史の耿鄙が涼州の反乱討伐に乗り出すも逆に殺され、漢陽太守の傅變も戦死。
耿鄙に軍司馬として仕えていた馬騰が主人の死と共に叛乱軍側に寝返る。 |
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6月 |
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キ州中山郡の相(もしくは太守)だった
張純が、同じく幽州漁陽郡の出身で泰山郡の相(または太守)だった張挙と共に叛乱。
張挙は自ら天子と称し、張純も弥天将軍・安定王天子と名乗り、烏桓の大人(単于)・丘力居の後援を得て、十余万の軍勢で青州・冀州・幽州・徐州の地域を荒らしまわる。 |
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・・・ |
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荊州の長沙郡で区星が将軍を称し、また零陵郡・桂陽郡でも周朝と郭石が区星と呼応して叛乱を起こす。
朝廷は孫堅を長沙太守に任じて討伐を命じ、3郡の叛乱を鎮圧。
孫堅はこの功績で烏程侯に封ぜられる。 |
中平5年(188年) |
3月 |
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劉焉の建議により、刺史の支配力を強化した牧が各地に置かれる事となり、劉焉は益州牧に、劉虞が幽州牧、黄エンが豫州牧にとそれぞれ任命され、送り込まれることに。 |
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8月 |
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霊帝により皇帝直属の近衛軍、西園八校尉が設置される。 |
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・・・ |
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涼州の王国が陳倉城を包囲した為、皇甫嵩は左将軍に復帰し、前将軍の董卓と共に、それぞれ二万人ずつの軍勢を連れてその救援に向かう。
王国は陳倉城を八十日余り包囲したものの陥落させることができず撤退を始める。
皇甫嵩は逃げる賊軍の後を追って追撃し、大勝を収める。
涼州大乱の一応の終焉。 |
中平6年(189年) |
・・・ |
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董卓がヘイ州牧に任命され、彼の持つ軍兵を全て皇甫嵩に預けて朝廷に復命せよとの詔勅が下るが董卓は復命せず。 |
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3月 |
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前年に幽州牧として赴任した劉虞は張純・張挙の叛乱に対し、彼は張純・張挙を支援する烏桓の丘力居、及び鮮卑・匈奴などといった漠北異民族の懐柔に乗り出して叛乱軍との切り離し工作を進め、孤立した張純は食客の王政に殺され、張挙は行方不明となり、賊乱の鎮圧に成功する。 |
光熹元年(189年) |
4月 |
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霊帝劉宏が崩御し少帝劉弁が即位。光熹に改元。 |
昭寧元年(189年) |
8月 |
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大将軍の何進が宦官誅滅の為、各地方軍閥の将兵を中央へと呼び込むことを画策するが、宦官、中常侍・張譲の逆襲に宮中で殺害されてしまう。
しかしこの事に呉匡・張璋を始めとした何進の部曲将達が亡き主の報復の為と、
兵を挙げて朝廷の宮門に殺到。
これに虎賁中郎将の袁術同調して遂に宦官達に対するクーデターが勃発。
さらに司隷校尉の袁紹が宮廷内部にまで兵を突入させて全ての宦官を抹殺。
しかしその直後、朝廷は軍を率いて乗り込んで来た董卓によって牛耳られ、事実上乗っ取られてしまう。
董卓は少帝を傀儡として自ら司空となる。
昭寧と改元。 |
永漢元年(189年) |
9月 |
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董卓は少帝を廃し、陳留王・劉協を献帝として即位させる。
永漢と改元。
董卓は大尉に、楊彪が司空、黄エンが司徒となる。 |
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11月 |
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董卓が相国となる。 |
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・・・ |
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この頃、徐州広陵太守の張超に、郡功曹として仕えていた地元の名士・臧洪の訴え掛けにより、臧洪の主人の張超と、及びその張超の兄だったエン州陳留郡太守の張バクらを中心として、後の反董卓連合軍結成の準備が進められる。 |
初平元年(190年) |
1月 |
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キ州渤海郡太守の袁紹を盟主として反董卓連合軍が結成される。
勃海太守袁紹、冀州牧韓馥、河内太守王匡らは黄河の北岸、キ州河内郡の懐に駐屯。
陳留太守張邈、広陵太守の張超、エン州刺史劉岱、東郡太守橋瑁、予州刺史孔伷らはエン州陳留郡の酸棗に駐屯。
後将軍袁術、長沙太守の孫堅はケイ州南陽郡の魯陽にそれぞれ駐屯。 |
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2月 |
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王允が司徒に。董卓は長安への遷都を強行。
しかし自らは洛陽郊外の畢圭苑に残り、洛陽の宮殿を焼く。
曹操が衛茲、鮑信・鮑韜兄弟と共に軍を率いて成皋城の占拠に向かう途中、ベン水で董卓軍の将・徐栄と遭遇戦となり敗北。
衛茲、鮑韜は戦死。
敗れた曹操は南の揚州まで行って一度兵員を補充し、そしてそこからはもう、彼がそれまで属していた酸棗の本陣へとは戻らず、生き残った盟友の鮑信と共に、河内郡の盟主・袁紹を頼って所属先を変える。 |
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3月 |
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董卓は袁紹・袁術の叔父である太傅の袁隗を始めとして、都に残っていた袁一族の全てを処刑する。 |
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・・・ |
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董卓から大鴻臚の韓融、少府の陰脩、執金吾の胡母班、将作大匠の呉脩、越騎校尉の王壞らが、関東諸侯の説得の為にそれぞれの陣地を訪れるものの、ただ韓融のほか皆、捕らわれて殺されてしまう。 |
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6月 |
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董卓が五銖銭を廃止して新たに粗悪な銅銭を鋳造したため、長安は激しいインフレに陥る。 |
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・・・ |
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長沙太守の孫堅が荊州刺史の王叡と、南陽郡太守の張咨を殺す。
朝廷から詔書で以って劉表が新たな荊州刺史として派遣される。 |
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・・・ |
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エン州刺吏の劉岱が兵糧の貸し借り問題から揉めて東郡太守の橋瑁を殺し、王肱をその後任として据える。 |
初平2年(191年) |
春 |
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袁紹・韓馥は劉虞を帝に立て様と画策するも劉虞は拒絶。 |
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2月 |
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董卓が太師に。 |
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・・・ |
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孫堅が董卓の将・胡軫、呂布を陽人で撃破し華雄を斬るも、袁術と兵糧の問題で揉める。
一方、董卓も孫堅の下に李カクを送って懐柔を試みるも失敗に終わる。 |
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4月 |
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董卓が長安に。
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7月 |
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馬日テイが太尉に。
袁紹、韓馥を脅してキ州牧の地位をを奪う。
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11月 |
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青州黄巾賊が30万の規模で大挙してが泰山郡へと侵入するも、泰山郡太守の応劭に撃退される。 |
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・・・ |
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敗れた青州黄巾賊は転じて渤海郡への侵略を企てるも、今度は公孫サンに同郡内の東光に於いてやはり撃退される。 |
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・・・ |
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黒山賊の于毒、白繞、眭固等十余万が魏郡﹑東郡に侵略。
しかし東郡太守の王肱はこれを防げず、代わりに曹操が撃退に乗り出す。 |
初平3年(192年) |
・・・ |
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袁術と劉表との戦いに孫堅が劉表を襄陽に包囲するも、孫堅が不慮の戦死を遂げてしまう。
袁紹と公孫サンが界橋で戦い、公孫サのン大敗に終わる。 |
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春 |
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曹操が黑山賊の于毒、眭固、匈奴の於夫羅を討伐。 |
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夏 |
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王允、呂布の離反により董卓が暗殺され、三族皆殺しとされる。 |
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・・・ |
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青州黄巾賊100万がエン州へと乱入し、任城相の鄭遂を殺しさらに東平郡へと侵入。
エン州刺史の劉岱が討伐に向かうも返り討ちに逢って戦死。
代わりにエン州では陳宮の説得で曹操を新たなエン州刺吏として迎え入れることが決められ、曹操を賊軍討伐の総帥として迎撃戦が再開。
曹操の挙兵以来の盟友・鮑信は戦死するも苦戦の末に賊軍を打ち破り、降兵30万を含む100万の人数を手に入れる。 |
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6月 |
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董卓の部曲将だった李カク、郭汜、樊稠、張済らが謀反して長安を攻め、再び都を乗っ取り王允を殺害。 |
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8月 |
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太傅の馬日テイ及び太僕の趙岐に節を持たせ、天下の慰撫に派遣する。 |
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9月 |
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李傕が車騎将軍、郭汜が後将軍、樊稠が右将軍、張済が鎮東将軍に。 |
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冬 |
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劉表が調停に使者を遣わして奉貢し、劉表は李カクから鎮南將軍・荊州牧、成武侯に封じられる。 |
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・・・ |
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袁術と袁紹兄弟の争うで、袁術は公孫サンに助けを求める。
公孫サンは劉備を青州平原郡の高唐に、単経を平原に、また徐州の陶謙もエン州東郡の發干にまで軍勢を送り込んで袁紹・曹操軍と戦争になるも、袁術側の敗戦に終わる。 |
初平4年(193年) |
3月 |
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袁術が揚州刺史の陳温を殺して淮南を領有。 |
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・・・ |
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徐州で下邳の闕宣が数千人の民衆を集めて自ら天子を称名乗りるが、州牧の陶謙は彼と共に泰山郡の華県、費県を占領し、任城国で略奪を行う。 |
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秋 |
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曹操が亡父の仇討ちに陶謙を討伐すべく徐州に乱入。
10余りの城を陥落させる。 |
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・・・ |
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公孫サンが大司馬の劉虞を殺す。
袁術の命を受けた孫策はて長江を渡り、以後、僅か数年の間に江東を席巻して
一大勢力を築き上げる。 |
興平元年(194年) |
・・・ |
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興平に改元。帝の元服。 |
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春 |
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曹操、一度目の徐州遠征から帰還。 |
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3月 |
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韓遂・馬騰が郭汜・樊稠と長安から50里の長平観で戦い、敗退。
この戦いに益州牧の劉焉は子の劉範を馬騰の援軍に送る。 |
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夏 |
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曹操は本拠ケン城の留守を荀彧、程昱に任せて自身は再び徐州の陶謙征伐に
出陣する。
徐州東海郡のタン城近郊で曹豹と劉備の軍勢を破り、さらに同郡内の襄賁を攻略。
曹操軍の通過した所では多くの民衆が惨殺される事となった。 |
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・・・ |
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エン州陳留郡太守の張バクとその弟の張超、及び曹操の腹心だった陳宮らが
呂布を盟主として曹操に反逆を起こし、エン州の乗っ取りを画策する。
曹操はエン州内、ケン、范、東阿の僅か3城を残してすべて反乱側の手に落ちるが、徐州から帰還した曹操は呂布軍と濮陽で100日にも及ぶ交戦へと突入。
しかし蝗害の大発生で両軍共に兵を引き撤退。
この頃長安周辺三輔でも4月から7月に至るまでの間に大旱魃が続き、穀物1石の値が50万、豆麦1斗が20万銭にも騰がり、大飢饉となる。 |
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9月 |
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曹操はケン城に戻るも糧食尽き、袁紹からの支援の誘いに人質を差し出し、今度こそその完全な従属の支配下に入る事を一旦は決意するも、程イクの諌止に翻意して再び呂布軍との決戦に挑む。 |
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10月 |
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曹操軍はケン城から東阿へと移る。 |
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・・・ |
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徐州牧の陶謙が病死し、豫州刺吏の劉備がその後を継ぐ。
揚州では揚州刺史劉ヨウが孫策と曲阿の戦いに敗れ、江東を追われる。
太傅の馬日テイが寿春にて病死。 |
興平2年(195年) |
1月 |
白容、黄邵から豫州潁川郡許の県城を乗っ取る。 |
曹操、定陶に済陰郡太守の呉資を攻め、救援にきた呂布を撃退。
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3月 |
葛陂の戦い。(白容VS何儀) |
献帝、李カク・郭汜の傀儡から逃れ、長安を出る。 |
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8月 |
平輿の戦い。(白容VS郭貢) |
曹操、張バクの弟・張超を雍丘に包囲。 |
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10月 |
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曹操、エン州牧に任命される。 |
建安元年(196年) |
1月 |
劉備、呂布に除州を奪われる。 |
劉備、呂布に除州を奪われる。 |
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2月 |
白容、許に侵攻して来た曹操軍を撃退。 |
曹操、豫州潁川郡・汝南郡の黄巾賊を討伐。 |
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10月 |
梁の戦い。(白容VS楊奉・韓暹) |
曹操、司空・車騎将軍に就任。 |
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・・・ |
呂布が小沛の劉備を攻めて追い出し、敗れた劉備は曹操を頼って落ち延び
豫州牧に任命される。 |
呂布が小沛の劉備を攻めて追い出し、敗れた劉備は曹操を頼って落ち延び
豫州牧に任命される。 |
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・・・ |
孫策、丹陽・呉・会稽の三郡までを制圧。 |
孫策、丹陽・呉・会稽の三郡までを制圧。 |
建安2年(197年) |
1月 |
曹操、再び白容の領内へと侵攻。
潁川郡の奪取には成功するものの、汝南郡にて白容・袁術軍の逆襲に遭い惨敗。 |
曹操、荊州南陽郡の宛に侵攻。
宛の張シュウは一旦は降伏するも直ぐに反旗を翻して
曹操を襲撃。
曹操は曹昂、曹安民、典韋を失い、
宛を追われる。 |
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・・・ |
袁術、帝位を僭称。 |
袁術、帝位を僭称。 |
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・・・ |
除州の戦い。(袁術・白容VS呂布) |
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9月 |
陳の戦い。
袁術、陳国に侵攻するも曹操軍に撃退される。
しかしその曹操軍も白容軍の軍事介入に遭って壊滅。
白容は陳を奪取。 |
袁術、陳国に侵攻するも曹操軍に撃退される。 |
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11月 |
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曹操が再び宛に出兵。
今度は穣城の張シュウと賈クではなく、劉表側の湖陽と舞陰を陥落させる。
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建安3年(198年) |
1月 |
曲阿の戦い(白容VS孫策、周瑜、太史慈)
丹陽の戦い(白容VS呂布)
句容の戦い(白容・李通VS孫策、周瑜)
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3月 |
白容軍、揚州廬江郡へと侵攻し皖城を占領。
白容軍、荊州江夏郡へと侵攻し江夏城を占領。
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曹操、再度、宛の張シュウを穣城に包囲。 |
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5月 |
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曹操、劉表が穣に送った救援軍を伏兵で撃破。 |
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7月 |
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呂布と袁術が同盟し、呂布は高順を派遣して小沛の劉備を攻撃。
劉備の救援に曹操が夏侯惇を送るも敗退。 |
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9月 |
合肥・逍遥津の戦い。(白容VS張遼、楽進、李典) |
劉備が呂布軍に敗れ小沛城を追われる。 |
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10月 |
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曹操、呂布の下ヒ城を包囲。
郭嘉、荀攸の策に従い、泗水、キン水を決壊させ、水攻めを行う。
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12月 |
居巣の戦い。(白容VS曹操、荀攸)
石亭の戦い。(白容VS劉備、関羽、張飛)
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曹操、下ヒ城を落とし、呂布、高順、陳宮を処刑。 |
建安4年(199年) |
1月 |
広陵の戦い。(白容VS陳登)
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2月 |
下ヒの戦い。(白容VS陳珪、陳登)
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曹操と争う呂布と盟友関係だった野王の張楊が家臣の楊醜の謀反に遭って殺害される。
楊醜は張楊の首を携え曹操の下へ赴こうとするが、同じく張楊の家臣だったスイ固によって殺され、スイ固は楊醜の軍勢を吸収して射犬城に入り、袁紹の支援を仰ぐ。
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3月 |
泰山の戦い。(白容VS臧覇・孫観・呉敦・尹礼・昌キ) |
袁紹、易京に公孫サンを敗死させる。 |
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4月 |
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曹操、射犬城のスイ固を攻撃。
スイ固は射犬城の守りを薛洪と繆尚に任せて自らは袁紹に救援を求めに行くも、
その途中の犬城で曹仁、史渙らと遭遇して戦死。
射犬城も曹操軍によって陥落させられる。 |
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6月 |
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袁術、兄の袁紹を頼って徐州から北に向かうも途中で病に倒れ、死亡。
劉備はその袁術の討伐を名目として許から下ヒに入り、そこで徐州刺史車冑を殺害し曹操から独立。
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10月 |
白容、汝南郡へと侵攻。 |
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11月 |
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宛の張シュウと賈クが曹操に降伏。 |
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12月 |
白容、曹操から許を奪回する。 |
孫策が黄祖を攻撃し、江南に支配権を拡げる。 |
建安5年(200年) |
1月 |
白容、皇帝就任。許を都とし国号を韓と定める。 |
董承、王子服らによる曹操暗殺計画が発覚し、関係者の多数が処刑される。
曹操は徐州に出征して劉備をキ州へと追い、関羽を降伏させる。
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2月 |
反白面連合の成立。 |
袁紹、曹操を討つべく大軍を率いて南下を開始。
黄河を超えて白馬の劉延を攻める。
官渡の戦いの始まり。 |
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4月 |
官渡の戦い。(白容VS袁紹) |
曹操、白馬・南阪の戦いで顔良・文醜を討ち取る。 |
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10月 |
ケン城の戦い。(白容VS曹丕・程イク)
白容、エン州を平定。 |
許攸の寝返りで曹操が烏巣の袁紹軍食糧基地を焼き払い、淳于瓊を斬る。
張コウと高覧は曹操に降伏。
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建安6年(201年) |
4月 |
白容、黄河を超えて倉亭の袁紹軍を襲撃。 |
曹操、黄河を超えて倉亭の袁紹軍を襲撃。 |
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9月 |
汝南で反乱を起こした劉備・趙雲、瞿恭・江宮・沈成を
趙儼・杜襲が撃退。
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曹操、汝南で反乱を起こした劉備と共都を撃退。 |
建安7年(202年) |
5月 |
袁紹死去。末子の袁尚がギョウで後を継ぎ、長兄の袁譚は車騎将軍を名乗り黎陽に入る。 |
袁紹死去。末子の袁尚がギョウで後を継ぎ、長兄の袁譚は車騎将軍を名乗り黎陽に入る。 |
|
9月 |
白容、黎陽城に袁譚・袁尚兄弟を攻める。 |
曹操、袁兄弟を討つべくキ州に出兵。
袁尚・袁譚は共に黎陽で曹操を迎え撃つ。
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建安8年(203年) |
3月 |
白容、黎陽城を陥落。
袁譚は死亡し袁尚はギョウへ逃亡。 |
黎陽城の攻略に手間取った曹操は、袁氏の本拠、ギョウ城を攻める振りをして袁尚・袁譚兄弟を黎陽城外へと誘き出し、野戦で撃破。
黎陽城を手に入れ、袁兄弟はギョウへと逃げ込む。
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5月 |
白容はギョウ近くまで進軍するが、賈クの助言で一旦、軍を引き、許都へと戻る。 |
曹操はギョウ近くまで進軍するが、郭嘉の助言で一旦、軍を引き、許都へと戻る。
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8月 |
白容が宛に出兵。
張シュウは白容に降伏。
宛にやってきた白容軍に対し、劉表の客となっていた
劉備が新野から白容を討つべく
出陣。穣の戦いが行われる。(白容VS劉備) |
曹操が劉表征討に西平へと出兵したところで、袁尚、袁譚兄弟の間で仲違いが生じ、袁尚にギョウから平原へと追われた袁譚は郭図と共に曹操に寝返る。
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建安9年(204年) |
2月 |
袁尚が平原で起こった反乱を鎮圧するためにギョウを出た隙に、白容がギョウの攻城を開始。 |
袁尚がギョウを出て平原の袁譚を攻めた隙に、曹操はギョウの攻城を開始。 |
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3月 |
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7月 |
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ギョウ城の救援に戻って来た袁尚を曹操が場外の野戦で撃破。 |
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8月 |
白容がギョウ城を陥落させる。 |
ギョウ陥落。 |
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9月 |
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12月 |
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曹操と同盟していた袁譚が違約したため、曹操は平原の袁譚を攻め、追放。 |
建安10年(205年) |
1月 |
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曹操、南皮に逃げた袁譚を攻撃して斬首。
残された袁尚も焦触と張南の反乱に遭い、彼のもう一人兄・袁煕と共に烏丸三氏を頼って逃亡。 |
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4月 |
黒山賊の張燕が白容に降伏。 |
黒山賊の張燕が曹操に降伏。 |
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8月 |
袁紹の甥の高幹がヘイ州の壺関で白容に反乱。 |
袁紹の甥の高幹がヘイ州の壺関で曹操に反乱。 |
建安11年(206年) |
4月 |
白容、壺関城を落として高幹を処刑。 |
曹操、壺関城を落として高幹を処刑。 |
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8月 |
白容、東方の海賊・の管承を討伐。 |
曹操、東方の海賊・の管承を討伐。 |
建安12年(207年) |
3月 |
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曹操、北方の鳥丸勢力を討つべく大遠征を開始。 |
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8月 |
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曹操、白狼山で鳥丸・袁兄弟連合軍を野戦で破り、トウ頓を斬り、柳城を手に入れる。
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建安13年(208年) |
・・・ |
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周瑜が江夏の黄祖を討ち取る。 |
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6月 |
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曹操、丞相に就任。 |
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7月 |
白容、劉表征討に出発する。 |
曹操、劉表征討に出発する。 |
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8月 |
劉表が病死し劉琮が跡を継ぐ。 |
劉表が病死し劉琮が跡を継ぐ。
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9月 |
劉琮が白容に降伏。 |
劉琮が曹操に降伏。 |
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12月 |
白容、落鳳坡にて敵の襲撃を受ける。
孫策が抹稜城、周瑜が江陵城へと侵攻を開始。 |
赤壁の戦い。 |
建安14年(209年) |
1月 |
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9月 |
周瑜が南郡・江陵城の黄忠を追い、孫策から南郡太守に任命される。 |
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12月 |
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廬江郡で反乱を起こした雷緒を夏侯淵が討伐。 |
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周瑜が南郡・江陵城の曹仁を追い、孫権から南郡太守に任命される。 |
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・・・ |
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劉備が孫権の妹、孫夫人と政略結婚。 |
建安15年(210年) |
1月 |
周瑜死去。
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3月 |
孫策が許都征圧の北伐軍を起こし、寿春を占領するが、直後に刺客の襲撃を受け、死亡。 |
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11月 |
白容、許都に銅雀台を築く。 |
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・・・ |
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周瑜死去。 |
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・・・ |
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曹操、銅雀台を築く。 |
建安16年(211年) |
3月 |
白容が関中から漢中を平定すべく親征の遠征軍を起こす。
白容軍の出兵に危惧を抱いた馬騰・韓遂ら、関西八部衆率いる涼州の軍閥連合が曹操を支援し、の要塞を固めて挙兵。渭水の戦いが行われる。(白容VS馬騰・馬超、韓遂)
白容の出兵に脅威を抱いた蜀の劉璋はが、劉備軍との同盟を模索し、使者を派遣するが、使者となった蜀臣の法正は、仲間の孟達らと語らって、劉備に蜀を受け渡そうと画策する。 |
曹操の漢中遠征に韓遂、馬超ら、関西の豪族勢力が潼関を奪い挙兵。 |
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5月 |
劉備、漢中の張魯からの侵略に苦しめられる劉璋の求めに応じ、その救援を引き受け、培城で劉璋と会見。
劉備の軍師・ホウ統は、この場で劉璋を生け捕ることを進言するが、劉備は聞き入れず、そのまま百日にも渡る宴の日々が続けられる。 |
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7月 |
潼関の戦いに勝利した白容が関中の占領を果たす。
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潼関・渭水の戦い。 |
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10月 |
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11月 |
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・・・ |
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益州の劉璋と対立する五斗米道の張魯打倒のため、蜀臣の張松・法正らの手引きにより、彼らに代わってその討伐を引き受けた劉備が益州へと入る。
劉璋は培城にて劉備と会見し、劉璋は劉備を行大司馬兼司隷校尉に推挙し、劉備もまた劉璋を行鎮西大将軍兼益州牧に推挙。
劉璋が劉備の兵員を増強させると劉備軍は歩騎合わせて3万人余の軍勢となり、劉璋は劉備に張魯を攻撃させることと、そのために必要な白水関への指揮権を与える。 |
建安17年(212年) |
8月 |
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曹操との戦いに敗れた馬超が再び羌族の兵を集め隴上で蜂起し、涼州刺史の韋康を殺害。
冀城を奪い征西将軍・ヘイ州牧・涼州軍事総督を名乗る。 |
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10月 |
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曹操、孫権の討伐に濡須へと遠征。 |
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・・・ |
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荀イク死去。 |
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・・・ |
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曹操に攻められた孫権が劉備に救援を要請してきたため、劉備は劉璋にことわりを入れて益州から呉の援軍に向かおうとする。
益州別駕の張松は劉備を止め様とするが、一連の企みを兄の張粛に密告されて張松は処刑。
劉璋と劉備の間で戦争が開始される。
劉備は白水軍督の楊懐と高沛を斬り白水関を奪取。
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建安18年(213年) |
1月 |
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濡須口の戦い。
呉の董襲が暴風雨に巻き込まれて溺死。
甘寧が僅か百人の人数で曹操軍に奇襲をかけて成功を得たりしたものの結果は痛み分け。
曹操は敵将の公孫陽を捕らえたことで軍を収め撤退。
曹操はそれまでの漢王朝全土「十四州制」から、幽州・并州を省いて冀州に合わせ、司隷校尉と涼州を省いて雍州とし、交州を省いて荊州と益州にそれぞれ分け合わせ、新たに禹貢の昔の時代に倣った「九州制」(豫・冀・エン・徐・青・荊・楊・益・雍)にする。 |
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7月 |
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曹操、魏公となり、九錫を受ける。 |
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9月 |
白容との戦いに敗れた馬超が再び羌族の兵を集め隴上で蜂起し、涼州刺史の韋康を殺害。
冀城を奪い征西将軍・ヘイ州牧・涼州軍事総督を名乗る。
楊阜、姜叙、趙衢、尹奉らの反乱に、馬超が冀城から漢中へ追われる。 |
馬超は涼州の冀城を占領するも、やがてまたそれを楊阜・姜叙らに奪回され、
敗れた馬超は漢中の張魯の下へと身を寄せる。 |
建安19年(214年) |
1月 |
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曹操、籍田を耕す儀式を行う。
楊阜、姜叙、趙衢、尹奉らの反乱に、馬超が冀城から漢中へ追われる。 |
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益州の征圧にてこずる劉備に加勢すべく、諸葛亮は関羽に荊州を任せると、自ら軍を率いて張飛・趙雲らと三路から、成都に向って進撃を開始。 |
諸葛亮は関羽に荊州を任せ、自ら軍を率いて張飛・趙雲らと三路から、劉備軍の援軍として成都に向って進撃を開始。 |
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5月 |
劉備、成都に劉璋を降伏させて益州を領有。 |
劉璋が劉備に成都を明け渡して降伏。 |
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11月 |
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伏皇后・伏完ら一族が謀反の疑いで曹操によって処断される。 |
建安20年(215年) |
3月 |
白容、漢中の張魯征伐を開始。 |
曹操、漢中の張魯征伐を開始。 |
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7月 |
白容、漢中を制圧。 |
曹操、漢中を平定。 |
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8月 |
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孫権が出兵し、合肥を包囲するが、張遼、楽進、李典に大敗。 |
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12月 |
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曹操、関中に夏侯淵を残し、南鄭から帰還の途につく。この頃、夏侯淵を征西将軍に任じる。 |
建安21年(216年) |
5月 |
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曹操を魏王となる。 |
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10月 |
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孫権討伐に出発。 |
建安22年(217年) |
1月 |
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曹操は居巣に陣を張り、張遼・臧覇を先鋒に孫権軍を攻撃。
孫権は呂蒙を指揮官に任命して防衛。 |
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3月 |
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曹操、夏侯惇を26軍の総司令官に任じ、居巣に曹仁、張遼を一緒に残して帰還。
孫権も形ばかりながら曹操に降伏を申し入れ、両軍が戦場から撤退。
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・・・ |
劉備が張飛・馬超・呉蘭を派遣して、白容領漢中への侵攻を開始する。 |
劉備、張飛・馬超・呉蘭を派遣して下弁に駐屯する。曹操、曹洪と曹休を派遣する。 |
建安23年(218年) |
1月 |
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金イ、吉本、耿紀、韋晃らが許都で反乱。 |
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4月 |
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代郡と上谷で反乱を起こした烏丸勢を曹彰が鎮圧。
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7月 |
白容、劉備の討伐に漢中へ出兵。 |
曹操、劉備の討伐に漢中へ出兵。 |
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10月 |
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宛の侯音が関羽と結んで曹操に反乱。 |
建安24年(219年) |
1月 |
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宛の反乱を曹仁が鎮圧。 |
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劉備が漢中を占領。 |
漢中で劉備軍を迎え撃っていた夏侯淵が戦死。 |
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3月 |
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曹操、長安から斜谷を抜け、陽平関にて漢中の劉備と対峙。 |
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5月 |
白容、漢中を守る劉備に敗れ、許都へと撤退する。 |
曹操、長安へ撤退。 |
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8月 |
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関羽が樊城の曹仁を攻撃。
曹操、曹仁の救援に于禁、ホウ徳を派遣するも水難に遭い于禁は降伏。
ホウ徳は関羽に斬られる。
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9月 |
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魏諷がギョウで反乱。 |
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10月 |
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徐晃が関羽を撃破し樊城の曹仁の救援に成功。 |
建安25年(220年) |
1月 |
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呂蒙、関羽の捕縛に成功し処断。
曹操が洛陽にて死去。
曹丕が跡を継ぎ、魏王・漢の丞相となる。 |